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平成作文~未来へ

作文応募期間:平成30年1月26日~3月20日

家族のつながり

昭和天皇が崩御され、激動の時代が幕を閉じた。小渕官房長官が色紙を掲げ、「新しい年号は平成です」との映像と言葉は、時代が変わったことを強く印象づけた。平成元年4月に父が89歳で亡くなった。父と母は同い年であったが、その後母は100歳で人生を終えた。平成2年に長男が結婚した。当時、地区では長男は跡取りとして親と同じ家屋に住むことが一般的であった。私は、同一宅地内ではあるが長男夫婦とは別棟にし、日常生活は干渉しないようにした。半年間ほどは嫁姑のもめ事も無く、近所もうらやましがる日々だった。地区恒例の盆踊りに向け、練習日を決めて夕飯後の練習が始まった。私はこの年、地区の三役の一翼を担っており、地区最大の盆踊りを盛大に開催させる責任があった。立場上、区民や若嫁さんらに練習に参加するように促していた。息子の嫁にも練習は必ず参加するように命令調で声を掛けた。「ええ嫁さんをもらわしたね」と言ってもらえる良い機会だとも思った。盆踊りに参加してくれるものと疑わなかった。嫁の返事は、「私は踊りは嫌いですから、練習には行きません」。私が期待した返事とは違うまさかの言葉が返ってきた。役員の息子の嫁が、盆踊りに参加しない、協力しないのでは私の立場が無い。「踊りの練習に行ってくれ」「私は絶対に嫌です」、こんな口争いが数日間続き、私の気分は常に悶々としていた。数日後、仕事を終えて帰ると、新築の住まいから家財道具が全て消えていた。妻からも「あなたが悪い」と責められた。私の心は高ぶり、怒りを抑えられなかった。地区では同一宅地内で、別棟の二世帯になっているところはない。これほど息子夫婦を理解し思いやりのある親は無いと自負していたのに。周囲からは、「家を別々にして風呂やお勝手を作るなんて不経済でもったいない」との声も聞こえていた。それなのに、なぜ息子夫婦からこんな仕打ちを受けるのか。世間の目にも格好がつかない。なにがなんだか訳が分からなかった。間を空けずに話し合いを持った。戻るように厳しく説得したが、2人の意志は変わらなかった。二度三度と話し合いを持ち、互いに譲歩し10年を目安に戻る条件で和解した。私たち夫婦が10年経っても元気であれば延長しても良い。逆に10年を待たずに、私たちになにかあれば戻ることを約束をした。数年が経った頃、嫁の母親から「あの子らは団地で家を買い住んでいる」と知らされた。後に分かったことだが、戻る約束の10年が近付いてくる。嫁は戻りたくない一心で、両親に田舎住まいの大変さや、私たち夫婦がいかに酷いかを常に口にしていたようだ。母親からすれば娘に慣れない田舎住まいで、酷い舅姑の苦労はさせたくなかった。「このような現状になった原因は、娘かわいさにあなた方が甘やかしたからではないか」と、嫁の両親を責めた。嫁の両親からは「あなた方夫婦がいかに酷い鬼で、そのような所にはこの子らを置いておけません」と相手にされなかった。なぜ嫁の親からこれほどまでに罵られなければならないのか、我慢の限界であった。息子に嫁をもらったのか、息子を婿養子に出したのか訳が分からくなった。嫁の実家からは、私たち夫婦は理解のない酷い義父義母にされていた。息子を呼びつけ、これまでの経緯を問い正した。「親をこれほどまでに悪者に仕立て上げ、約束を破り良心の呵責はないのか」、よく考え直して約束を履行するように促した。家内もなんとか思い直してくれるように諭していたが、無駄であった。私は息子にいかに親不孝で理不尽であるかを最後通告のように伝えた。息子は黙ったまま聞いていたが、私の思いを受け入れなかった。嫁と私たちとの狭間で、息子の胸の内が理解できないことも無かった。しかし、私もこの時まだ40代半ばで血気盛んであり、怒りが再びふつふつと湧きおこった。親子の縁を絶つと口にはしなかったが、心に潜め互いの関わりを絶った。悶々とした数年を過ごしていた。長女は京都で学んだ後、当地で仕事を持ち実家へ戻るつもりはなかった。老いゆく両親から遠く離れて結婚することは不安があったらしい。弟が家を出て戻らないのならと実家へ戻ってくれた。長男長女の併せて5人の孫もすでに実家を離れ、勉学に仕事にそれぞれの道を歩んでいる。

三重県いなべ市 奥岡巌さん 74歳 楽しみ家族・親族別れ怒り

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