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平成作文~未来へ

作文応募期間:平成30年4月15日~5月31日

消え去った繊維部門

私にとって平成5、6年は動乱の年であった。3年間の新潟勤務を終えて、平成5年4月に名古屋支社の新事業部へ。その10ヵ月後の平成6年2月には大阪支社へ。さらにその10月には大阪にある関連会社へと、転々としたのであった。私は既に54歳という「定年」が頭をよぎる時を迎えていたが、会社のこの慌ただしい処遇には納得ができなかった。しかし昭和50年代から生じた世の中の大変革の流れは、平成に移って、その実行を迫られる段階にあることも実感していた。私は昭和38年に商社に入社し、以来この時点まで30年間を繊維部門一本で歩んできた。会社にとっては主力部門のひとつではあったが、いかんせん伝統業界のこと。国内外との競争、天候、景気動向、また時の政策など、過去にたくさんの要因による浮き沈みを経験してきた。商社は従来から取扱量、つまり売上高が存立の基盤である。だがその方程式は、明治・昭和の経済の成長の中では概ね安泰であったが、平成に入った前後から急激な経済のソフト化(金融、情報、通信、環境、福祉など)の進行によって、その方程式は年々複雑性を加えていった。入社以来、昭和50年代半ばまでは、繊維原料と原糸などの二次原料の取り扱いで営業を維持できた。だが、為替の円高受け入れや国民所得の上昇に伴って輸入製品の増加や国内工場の海外移転が進行し、取引基盤は縮小し、売上高は減少一途。それを補うために、専門外であった繊維製品やアパレル製品の取り扱いを始めた。それを、「付加価値」を付ける加工取引と呼んで、売上高の維持に必死であった。しかし平成に変わる頃にはその戦略も、大手量販店や百貨店の扱い品の変化と、大手アパレルメーカーの自社生産・自社販売への急激な流れの影響により限界に達した。私は一商社の繊維部門の中で、その変転の波に揉まれていたのである。そして総合商社と言われる商社のほとんどから繊維部門が消え去った。それが平成5、6年ごろのことであった。わが国の産業界が21世紀へ向けて、生き残りをかけての新体制作りのピークに当たる時代であった。それは一方で苦闘の時代であった。当時に生まれた「規制緩和」や「価格破壊」の言葉はその象徴と言える。かつて日本の花形産業であった繊維業界。その紡績、紡織、縫製などの大工場跡地が大型ショッピングセンターや電子部品、自動車部品などの工場に変身しているのが現在の日本の光景である。自分のこのような経験と見聞から、変革とはその時々の人々の欲望(=産業行動)と国内外の政治力によって引き起こされてきたことを痛感する。繊維業界のみならず家電業界も同様であったように、将来において、電子や自動車の業界もその経験則からは逃げられないのではないか。その流れの基本は、量産型から高付加価値産業への絶えることのない変還であるように思われる。そして、それを実現する力は、たゆまぬ国民の研鑚と自由で高い文化との総合力ではないだろうかと考えている。

岐阜県大垣市 田辺義章さん 79歳 会社・仕事

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